オムニヴォア

書くために読んだもの。読むために書いたもの。2016.10.2より。読書の記録を中心に、日々の潜考の記録。いつか自分の本を1冊でも出すのが夢です。オムニヴォア(Omnivore = 1.雑食(性)動物 2.知識欲旺盛な人)

「コンビニ人間」をコミュ障が自分に置き換えて語ってるの見るとうわーっとなる ~ コンビニ人間 / 村田沙耶香

 

コンビニ人間

コンビニ人間

 

面白かったし、共感できる部分も多々ありましたが、私小説風なのが残念な気持ちにも。私って変でしょう?とアピールする女子のツイート感が若干邪魔くさくなりました。完全に創作物と割り切って読みたかったです。  

http://bookmeter.com/cmt/59910142

 

もうちょっと深掘る:あえてレビューの空気感に反応してみる。

 覗く前からわかっていたけど、読書メーターAmazonのレビュー欄の雰囲気はひどいw

 わかる! 自分もそう! 私も同じ悩み抱えている異端者よ! の大合唱である。

bookmeter.com

 

 中島みゆきは好きだけど、中島みゆきを聴いている人も嫌いではないけれど、中島みゆきを語っている人には吐き気がする。というラインと一緒だ。中島みゆきが唄う「僕」や「あなた」を自分に置き換えて陶酔して、その思いの丈を熱く語っている人にはうわーってなる。コンビニ人間も同じ現象が起きている。
 

 中島みゆきの歌に自分を重ね合わせて、感動に浸ることを否定しているわけではない。むしろとても正しい嗜み方だろう。戦う君の歌を、戦わない奴が笑うだろう、そうなんです僕笑われてもがんばります、つっぱります、と帰りの電車で沸々と思いを馳せるのは悪いことではない。しかしそれは自慰行為なのだから、ひっそりとやろう。みんなやっていることは知っている。邪魔もしない。だから密やかな営みとしよう。わざわざ人に熱く語らんでもよろしい。

 
 「コンビニ人間」の主人公に自分を重ねて、わかる~、そうよね、生きづらい世の中だよね、でもそう感じているのは自分だけ。
 
そんな感想を誰の目に触れるような場所に書き込むな、と私は言いたい!
 
いや、せめて書き込んだ後に、他の人の書き込みも見てみよう。その「自分だけ」が何百人といることについて、あなたはどう思うのか。せめて「多数派になれない私」ごっこをしたいのならば、公然の場に書き込む感想くらいマイノリティを気取って頂きたい。
 
 しかし、妙に納得できないのは、「コンビニ人間」の主人公が「普通になれてない」と断じている読者が多いことである。そうではないだろう。「コンビニ人間」の主人公も「普通」にはなれるのだ。コンビニという場所であるならば。つまり「どこにいても孤独感じちゃう私」とのたまう輩は、「コンビニ人間」の主人公よりかは一段レベルが低いことになる。低いレベルの人間が、一段レベルの高い人間に向かって勝手に「わかる~」を投げかけている。滑稽だ。
 
 「コンビニ人間」は、一般的には学生時代や社会に出てからの人間関係で学んでいく「普通」を、そうではなくコンビニという場所と就業マニュアルから得ていたということがちょっと変わっているよね、面白いよね、という話である。本当にどこに行っても「普通」になれないコミュ力の持ち主よりかは、はるかにまともな人間である。
 
 つまりここで、コンビニ人間に共感している層も二段階に分かれていると想像できる。
 
 自分にとっての「コンビニ」すらないレベルのコミュ障が勝手に自分のレベルに引き下げて強引に共感している層と、自分にとっての「コンビニ」に置き換えて、そこで起きることや自身の内面と照らし合わせて共感している層だ。前者に近い立場の人が「コンビニ人間」のレビューを読んで、妙な安堵感を覚える前に、本当に周囲の人が自分と同じ立ち位置で物を考えているのか今一度冷静になったほうがいい。
 
 繰り返すが「コンビニ人間」は、社会のどこにも行き場がないレベルの人間の話ではない。中島みゆきも、戦う君を応援しているのであって、戦いもしないお前は応援してないぞ。
 

 
 ところで、少し視点を変えてみる。「コンビニ人間」の主人公を表現する際に、アスペルガーサイコパスという言葉が使われているのを見かける。それに対して異論はない。僕が考えてしまうのは、はたしてその描かれ方にリアリティはあるのか、という部分だ。
 
 僕は医者でも学者でもないので、その人がそうだったと断じれるわけではないのだが、かつて発達障害の傾向が強い人と机を並べて働いていたことがある。当時のことは今思い出しても、ぞっとする。僕の職場はチームで仕事をするので、「普通」のコミュニケーションが取れない人と仕事をすることはとても消耗する。チームの全員がそれぞれに消耗するので、当然雰囲気も最悪になる。そうなると仕事の生産性も落ちてますますみんな消耗する。負の連鎖が止まらなかった。
 
 シフト制の職場だったから、毎日その状況になるわけではないのだが、その人と仕事をする日とそうでない日には明らかに生産性に差が出る状況だった。最終的にその人は職場を移ってもらうことになった。その時の経験と照らし合わせると、「コンビニ人間」の「私」は、発達障害的でありながら冷静に周りが見えている印象を受ける。僕の元同僚には、周りとうまくやっていけない「困惑」や「苦しさ」はあったように思えるが、何がそれをもたらしているのかまで最後まで到達できていなかったように思える。それも、ゴールに向かって前進を続けたが到達できなかった、というわけではなく、最後までゴールそのものにすら気づいてもらえなかったという印象だ。思考のベクトルが違いすぎて、すり合わせるとっかかりすらなかった。
 
 その点「コンビニ人間」の彼女はまだマシだ。自分を「治す」と表現できるだけ希望が持てる。他者の痛みを感じ取ろうという意思も見えなくもない。僕の元同僚には、他者の気持ちをトレースする能力が絶望的に備わっていなかった。
 
 しかし、となると、「コンビニ人間」の語られる「私」は、僕が当時肌で感じていたその手の人との交われなさと比べると、随分とぬるい異常性であるとも言える。「コンビニ人間」の主人公は、その発想や返す言葉に独自性はあれど、相手の言葉自体は割に正確にしっかりと受け止めることができているように思う。こと受信においてセンサーは正常であると思えるし、それゆえ彼女は「あれ、また私はおかしいこと言ってしまったな」と、自分の異常性も客観視できているようにも見える。彼女の苦悩は、自分が異端者であることに気づきつつも、それを制御できないことに対する苦悩だ。
 
 僕はどうもこの辺がしっくりこない。「私」と一人称で語る地の文の中に、作者の第三者目線の干渉が強く、一人称でありながら三人称であるかのような印象を持つ。これが、いわゆる「私」が「普通」の人である設定ならば、ここまで気にはならなかっただろう。僕の元同僚は、そもそも周りから異常だと思われていることに気づいていないというレベルだったので、どうしてもこの小説の「私」にはぬるさと違和感が残る。
 
 この違和感は、私って変な人なんです~と自分で言ってしまえる気持ちの悪い女に感じる「いや、本当に『変』ってそんなぬるくねぇんだよ」というイラつきにもかすっている。冒頭の読書メーターに書いた感想も、こういうところから繋がっている。
 
面白かったし、共感できる部分も多々ありましたが、私小説風なのが残念な気持ちにも。私って変でしょう?とアピールする女子のツイート感が若干邪魔くさくなりました。完全に創作物と割り切って読みたかったです。
 
「私」という一人称を選んだからには、「普通」になれない人の内面から世界を見せるという覚悟を決めてのことだと思うのだが、それを書いている作者の「普通」側からの観察の跡が見え隠れして、であれば「私」ではなく彼女を三人称で書き描く方がしっくりきたのではないかな、と、僕は思った。「私って変」キャラを成立させるには卓越した演技力が求められるはずだが、どうも天然を演じきれてない天然と対峙した時の面倒臭さの方が先に来る印象だった。
 
 だからもう、こういう「私って変」をやりきれてない女はこっちからいじってあげて面白くしていかないと、色々成立していかないと思うのだが、挙句「そうだよねー、私も変だからわかる~」とか、そっち方向に絡んでいく女が横にもう1人増えると、目も当てられないではないか。むしろそれ救えてねぇから、逆にとどめ刺しにいってるから、とか、僕は思うんですけどね。