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オムニヴォア

書くために読んだもの。読むために書いたもの。2016.10.2より。読書の記録を中心に、日々の潜考の記録。いつか自分の本を1冊でも出すのが夢です。オムニヴォア(Omnivore = 1.雑食(性)動物 2.知識欲旺盛な人)

妻について ~ 毎日彼女がいる家に帰ってくる。ここは鍵がかかっていない牢屋のような場所だ

ジャンク 未分類

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 今読み進めている本、見ているドラマ、プレイしているゲーム。どれもこれも、一度にわっと消化できる類のものではなくて、じっくり体に染み込ませて、少し時間が経ってから何かを書き留めておこうというタイプのものばかりで、どうもブログの記事を書く気持ちになれなかった。
 
 でもそろそろ何か書きたいなと思って、ふと思いついたのが今日の記事となる。いつもはだいたいアウトラインをイメージしてから書き始めるけど、今日はぶっつけ本番だ。
 
 今日のテーマは、「妻について」である。

  

 気づけばもう彼女と結婚して11年が経ったのか。あれ?ひょっとして12年? 僕はいつも彼女と結婚した年を忘れてしまう。反面、出会った年はよく覚えている。出会ってからもう17年だ。初めて声をかけたシーンは今でもはっきり再生できる。僕の中で、彼女とのスタートはあの地点で、婚姻届を出した日ではないということなのだけど、それでもそんな大事なイベントの記憶がほぼない、ということへの罪悪感は多少ある。俺なんて、所詮はそのくらいのいい加減な男なんだなと呆れる気持ちにもなる。

 
 それにしても38年生きてきた内の17年だ。とはいえ、不思議とそんなに時間が経った気がしない。おそらく僕の中で彼女の印象がほとんど変わらないからだろう。思い出の一つ一つを記憶から引っ張り出せば、17年の時間の厚みを実感できるけど、一緒に過ごす時間の質感は、出会った頃からずっと変わらない。彼女は相変わらずの様子で話すし、僕の話の聞く時の顔の傾け方も同じだし、抱きしめた時の匂いも変わらない。
 
 僕は初めから彼女の欠けている部分が手に取るようにわかった。そして、自分がそれを埋めることのできる何かを持っている、という確信もあった。もし良ければ、それを渡してあげたいと思ったし、実際彼女はあっさりそれを受け取ってくれた。彼女の10代の終わりに出会うことができて、20代の全てを一緒に過ごして、30代の半ばをも越えた。かといって、その間いつも温もりだけをシェアできていたわけではない。人生で最も大きい心の痛みは、少なくとも僕は彼女から与えられたし、きっと僕も彼女に与えてしまったと思われる。でも、基本的に僕たちは、互いに欠けているものを埋め合いながら一緒に生きてきた。そして新しい命すら授かった。
 
 彼女との間に二人の子供ができた。どちらも男の子だ。彼らは当たり前のように、僕達の息子として振る舞っている。彼らは、家にお父さんとお母さんが、明日も明後日も揃って暮らしていくということを微塵も疑ってはいないだろう。時々機嫌や体の具合が悪そうにしていることもあるけど、僕と彼女が彼らに愛情を注ぎ続ける未来しか見えていないだろう。何もかもが満ち足りているとはとても言えないが、僕達一家に愛と呼んでも差し支えない暖かさだけは安定供給されている。
 
 二人の間にある空気感はなんだろう。思うに、僕は彼女に恋をしたことはないのかもしれない。例えば、会って話をしているだけで楽しくて、明日も明後日も離れたくない。そんな気持ちになったことはない。胸が踊るような会いたい気持ち。そういう感情を彼女に覚えたことはない。そうまで気持ちが高ぶってしまうまで離れていたことがないからだ。時間を一緒に過ごすために、駆け引きなんてしたことがない。重なりあえない辛さがないのなら、一緒にいられることにどうこう感動する道理もない。
 
 もちろん、現実問題として会えない時間はたくさんあったし、恋人としての関係が万事順調だったというわけでもない。縁が切れそうになった局面もあった。これからだってないとはいえない。けどこうして17年も一緒にいたことを思えば、それは表面的な出来事だったと雑に割り切ることもできてしまう。当時はそんな達観とは対局の境地で、悩み傷ついてきたものだけど、今となってはもう全部過ぎ去ってしまった。
 
 記憶を全部なくしても、彼女に再び声をかける機会があったとしたら、やっぱり僕はまた彼女と17年過ごすだろう。だからといって、彼女と自分の間に起きていること、湧き上がる感情全てを理解できているわけではない。いやむしろ、17年経った今でも、何一つわかっていないのかもしれないとすら。名前を付けようがなくて、なんだろうこの感じってずっと観察や分析を続けているような、そういう気もする。彼女と一緒にいることはとても当たり前なのに、どうして当たり前なのかはさっぱりわかっていない。彼女のことは理解できるのに、どうして彼女とずっと一緒にいるのか、それは理解できていない。
 
 大事に思っているし、大事に思われてもいる。その状態が当たり前でない二人だとするなら、両思いになれた瞬間に燃え上がることだってあるし、奇跡に感謝もするのだろう。僕と彼女の間には、そういうことが全くない。なぜなら、互いを大事に思い合う状態が失われることがないからだ。僕と彼女は、互いを憎み合う時ですら、心が離れなかった。夫婦関係が破綻したって、僕たちは完璧な他人に戻ることはできないだろう。燃えがってもいないから、冷めるということもないのだ。
 
 激情に駆られることはないかもしれないけれど、空気のように側にいられる二人は、離れたくても離れられない。そもそも互いに抱き寄せているわけではないのに、勝手にくっついてしまった。勝手にくっついてしまっているものは、自分の意思で引き剥がせるものでもない。
 
 思えば思うほど、彼女との縁は不思議だ。いくらでも他の女性に恋をすることだってできるだろう。時々映画のような、衝動に任せた恋愛こそが本当の愛ではないかと考えることはある。そういう相手を探す努力を怠けて、お互いに妥協をしてしまったのではないかという仮説を立てたことも、実はある。しかし、僕はこの家を出ていかない。毎日彼女がいる家に帰ってくる。ここは鍵がかかっていない牢屋のような場所だ。閉じ込めておくことを目的としたはずなのに、その機能が放置されているような、そういういい加減さがここにはある。
 
 もうこれ以上、自分に良いことなんて何一つ起きないのではないかと思うことがある。人生の早い段階で、彼女という人に出会うことができて、楽しくて心休まる時間をたくさん過ごすことができた。これ以上を望んだって手に入りようがないくらいの幸せを得てしまったのかもしれない。だからもう自分には、「これ以上」なんてものはないのだ。どこかでそう信じてしまっている。この先、何も得るものがなかったとしても、納得して死んでいけばいいんじゃないだろうか。
 
 それでも僕の人生に、使いみちがある時間が残されているのだとすれば、やはりそれは彼女に捧げられるべきなのだ。自分の人生に「これ以上」がなくても、彼女にはまだ「その先」があるだろう。彼女にはまだやりたいことも、着てみたい服も、行ってみたい場所もあるはずだ。僕と一緒にいることで、できないことがある。そのことを思うと、とても悲しい気持ちになる。一つでも多くその望みを実現してあげたい。そして僕達の子供たちには、その思いはさらに強くなる。彼らはまだ何も始まってすらいないのだ。
 
 僕自身が健やかでないと、彼女も息子たちも幸せにはなれない。わかっている。僕は僕ひとりのものではない。妙な話だ。僕は彼女と子供たちの幸せのために、自分を幸せにしようとしている。いつからこんな人生観になったのかわからない。でも思い返せば、これまで純粋に自分のためだけに書くという行為は成り立たってこなかった。書くことで道を拓いてきたけれど、道を拓かなければいけない理由は、いつも誰かと自分、だったように思う。
 
 このブログを始めるにあたって、わざわざ妻に何か説明や宣言などしてない。というかURLすら知らせていない。だけど彼女はわかっている。何かを書き続ける生活に入っていることはもちろん知っているだろうし、何のために始めているかも伝わっている。彼女は僕以上に、僕を知っているだろう。世界で一番僕を知っているのは、僕自身でもなく、子供たちでもなく、僕の妻だ。間違いない。
 
 今朝も妻は、祝日なのにゆっくり寝かせてもらえないことでイライラしている(子供たちは朝から全開でうるさい)。同時に寝坊をして1日のスタートダッシュをトチった自分にも腹を立てている。まったくもって、恋のシチュエーションとは程遠い限りだが、もちろんそれで何の問題もない。
 
 
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