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オムニヴォア

書くために読んだもの。読むために書いたもの。2016.10.2より。読書の記録を中心に、日々の潜考の記録。いつか自分の本を1冊でも出すのが夢です。オムニヴォア(Omnivore = 1.雑食(性)動物 2.知識欲旺盛な人)

パスタを注文したら品切れですって言われて、じゃあハンバーグで、みたいなノリで大学って進むべき場所なのか?  /  親なら知っておきたい 学歴の経済学:西川純 【その1】

作品への感想 読書

 

親なら知っておきたい 学歴の経済学

親なら知っておきたい 学歴の経済学

 

 

タイトルからイメージされる冷たい感じや、見たくない現実感は捨て去った方が良いです。今ある厳しい現実の「その先」を見据えた本です。おおよそ想像つかない暖かい気持ちになれる読後感です。あるいは最後の章から読んでもいいかもしれません。ただ現実を嘆くばかりの筆者ではないと知ってから読めば説得力も変わってくるかもしれません。選挙の時期にはよく耳にした、奨学金の問題もよくわかりますよ。これから受験を控える子供を持つ親として、心から読んで良かったと思いました。子供が育つまでは親が守らなければいけないですから。

 

親なら知っておきたい 学歴の経済学 まっささんの感想 - 読書メーター

 

もうちょっと深掘る:「親が子供を守る」とは具体的にどういうことか、たくさん考えた

 

 子供ができて、「20年後の未来」というものが持つ意味ががらっと変わった8年前。学校を卒業するまでが責任の一区切りと考えれば、だいたい20年。嫌でもこの国で生まれて0歳から20歳までどう生きるべきか、我が子をどう導くべきかと考えるようになる。

 

 多くの親がそうであるかもしれないが、まず僕も、自分がしくじったな、と思う部分を頭の中に書き出して、それをなぞらない道順をイメージした。けど、実際に我が子が自我に芽生えてくると、そういう想像の仕方は間違いだと気づく。

 

 紛れもなく目の前にいる人間は、僕とは違う人間だ。彼には彼の感じ方があって、それを深く知るべきなんだと思い直した。自分だったらこうされたら嬉しい、と思ってやってあげたことには無反応で、反対にこんなことでこいつは喜ぶのかと驚くこともある。

 
 僕は小さい頃から本が好きだった。いや、文字が好きだった。絵本には興味がなかった。絵が多い本は、文字が少なくなるから面白みに欠けるとすら思っていた。それは今でもそういう傾向を引きずっていて、映画やドラマなどを見ていても、もっぱら物語の筋の部分にばかり目が行ってしまい、映像表現の部分で巧みな演出をされても見落としてしまうことが多い。反面妻は、全体の色使いであるとか、小道具のセンス、俳優のしぐさといった、映像表現の魅力を嗅ぎ分ける力が僕よりも豊かに備わっていて、同じ作品を見ても、違う部分に気づくので面白いなぁといつも感心している。
 
 そして息子たちはというと、長男は昔から数字が好きだった。今も算数は大得意で、これは今日の出来事であるが、「1学年上のドリル買ってきたらやるか?」と聞いてみたところ、目を輝かせて「やるやる!」と返事をした。実は今、授業の内容にも、日課にしているドリル解きも、簡単で退屈していたと白状した。
 
次男の方は工作や料理など手を動かすことが好きで、その辺に落ちているどんぐりを見つければ何に使えるだろうかと考えているし、妻が台所でただのじゃがいもをポテトサラダに仕上げていく工程を夢中になって見ていることがある。
 
このいずれの趣味も、僕にはほとんど興味がないことだ。親子らしく、僕の影響を受けているんだろうなぁと思える部分もある反面、まったく父親や母親が持ち合わせていない要素がひょっこり顔を見せることもある。割合としては、そちらのほうが多いように感じる。
 

 だから、彼らが僕がしくじった道をなぞる心配をする必要などない。彼らはすでに自分の道を歩んでいる。であるならば、親として何をすべきだろうか。

  親として、彼らがその価値に気づいていない彼ら自身の財産を守ってあげなければいけないと考えている。子供は、自らが子供であることの価値がわかっていない。今目の前にある一分一秒の価値がわかっていないのだ。

 
 大人になるにつれて、自分が失ったもの、取り返しがつかないものに心を奪われて、夢を見られなくなっていく。社会の価値観、のようなあるかないかもよくわからないものに囚われて落ち込んだりもする。誰もが通る道なのかもしれないが、いつかは卒業してほしい段階でもある。自分の幸せは、他人と比べてどうこう測れるようなものではないと知ってほしい。他人とは、社会とは、自分の惨めさを測るものさしではなく、自分の価値を相対的に気づかせてくれるありがたい存在なのだと思い至るのに、貴重な時間を無駄に使ってほしくない。
 
 自分の価値に、自分で気づけるようになるまでが一山というところではないか。そのために必要なのは、他者に認められ得る個性を獲得することだ。なんだっていいと思う。人より計算が早い。どんぐりを素敵な山の妖精に変身させたり、どびきり美味しいポテトサラダを作れる。なんだっていい。自分のスキルが、他者と共有できるポジティブな価値があると実感できるだけで、どれだけ人は幸せになれるだろう。
 

 ようやく今回テーマにしている本書の話と繋がるが

  本書の作者は、画一的なレースはやめにしませんか。もうそんな社会は崩壊している、と説いている。良い大学に入れば、良い会社に就職できて、良い暮らしができる。そんなモデルはとっくのとうに崩れている。奨学金という名の借金を背負ってまで大学に入る必要が本当にありますか?と。

 
 それが社会に変容に刺激されてのことなのか、それとも僕自身の個性だったのかよくわからないけど、高校3年生の時、目標もないのに大学に行こうとするクラスメートが大嫌いだった。とりあえず大学に入れて良かった良かったと安堵する空気感が気持ち悪くて仕方がなかった。大嫌いすぎて、僕は高校の卒業式に出なかった。か、あるいは出たのだけど、記憶を完全に失っている。たしか当日はサボったはずだが、本当にその日どうしていたのかまるで覚えていない。
 
 ただ大学に入ればいい、ただ就職すればいい。そこに自分の信念やビジョンがない人間が生きづらくなっていく世の中になっていくというのなら、僕は大歓迎だ。まさかそんな風に社会が移り変わることになろうとは思わなかった。
 
漠然と大きな組織にコミットすることが幸せに直結するモデルが、こんなに早く崩れ去ろうとするなんて。当時感じていた苛立ちが、多数派的に肯定される時代がやってくることなんて、まるで想像していなかった。
 
 今でも覚えている。当時の進路指導の教師に17歳の僕は熱弁を振るった。すべり止めのために大学を受験する、という感覚がどうしてもわからない。その行きたい大学に合格できるかできないか、できるようになるためにはどうすべきなのかの方法論が必要なんじゃないのか。というか、第一志望、第二志望って何だ。ファミレスでパスタを注文したら品切れですって言われて、じゃあハンバーグで、みたいなノリで大学って進むべき場所なのか?
 
(その2へ続く)