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オムニヴォア

書くために読んだもの。読むために書いたもの。2016.10.2より。読書の記録を中心に、日々の潜考の記録。いつか自分の本を1冊でも出すのが夢です。オムニヴォア(Omnivore = 1.雑食(性)動物 2.知識欲旺盛な人)

いまやれたことが、やれること。書けたものが、書けるものだということだ / 文体との向き合い方について考えた

夢を叶えるために

 自らの文体について、少し整理がついた気がするので書いておく。

 ここ数日、このオムニヴォアではなく、「一冊本を出すことを目指す用」の方の文章を書いていた。具体的には小説の頭の部分を2つ書いた。これなら書けそう、というプロットが2つあったので両方冒頭だけ書いてみた。

僕には文体が大きく分けて2つある。

1つは演劇の台本を書いている時に生まれた文体。

もう1つは物語以外のものを書く文体。ようはこのブログでの文体。

細かいことを気にしだすと、例えばレビューサイトに書く時、ブログにコメントを付ける時、嫁にLINEを送る時、それぞれ違う文体だけど、それらは横に置いておく。

ともあれ、ここ何日かで2つのプロットを2つの文体で書いてみた。そこで自分の内面を覗き込んでいる内に、1つ発見があったように思えた。

  戯曲用の文体は元々はセリフを書くための文体で、では地の文をどうしていくか、という課題がある。どうしてもキャラクターのセリフでストーリーを動かそうとして、まるでライトノベルのような風味になる(あまりライトノベルは読んでないので、見当違いな例えだったらごめんなさいね)。

対象的にブログの文体は、元々地の文を書くための文体なので、小説として様々な対象を描写するのに適している。地の文で引っ張っていくので、文芸作品っぽくもなる。

意図的に2つの文体を実験したわけではなくて、プロットに合わせて書いていたら、たまたま僕の手に馴染んでいる文体、それも対照的で出自もはっきりしているものを使っていたという感じだ。

 どっちに優劣をつけよう、という話ではない。どちらも僕が生きていく中で、必要に迫られて身につけてきたものだから、これに良い悪いはない。劇団で台本を書くために、セリフで話を動かす練習を毎日してたし、劇団のホームページに面白いことを書きたいと思って、コラム・エッセイ的な文体も自然と多く書いてきた。

 ただ今回、2本書いてみて結論としては、戯曲用の文体の方が、はっきりと気に食わなかった。どうしてなんだろうと考えた。

プロットだけ見比べると、両者にそこまで優劣がついている感触はないけど、そこに手持ちの文体をかけ合わせた時に、明確に「こっちはない」と結論が出せるくらいの差がついてしまった。戯曲用の文体の方は、これでは最終的に物語を着地させることができないだろう、とさえ思った。

着地させられるとは? それは物語で言えば、起承転結を走りきることで、もう少し踏み込むと、その枠組の中でテーマを描き切れるかということだ。

書くということが、自分の中を掘り進めるという作業だとして、文体は掘り進むためのツールそのものだ。それにも色々あって、剣先スコップもあれば、つるはしもあるし、電動ドリルだってある。僕はずっとここまで、掘り当てたい対象に合わせて文体を使いこなすという発想しかなかったように思う。そうではなく、手持ちの文体で何が書けるのか、という自己評価を一段下げた発想も必要だったように思う。色々な文体を使いこなせるはずだ、という前提が身の丈に合っていなかった。

 こういう格好いい小説を書きたい、とか、とんでもなく大きな話や深い話を書きたい、とか、「書きたい」という気持ちに正直に従いすぎていた。たぶん、これは人生観そのものに直結しているんだろうけど、目標があって努力を続ければ人は無限に変われるものなんだ、世界はそういう仕組みでなくてはならないんだ、という想いに引きずられていた。

一方で、いっぺんに変わることなどできない、と年齢を重ねて学んだ。成長にはプロセスがある。課題を1つ1つこなして土台を作りながらでないと、高いところへはいけない。その辺の裏山も登れないのに、富士山のてっぺんを目指すようなことをしてしまっている自分にふと気づいた。

 そもそもの話、戯曲用の文体は、小説と相性が悪い。戯曲はゴールのための手段であって、ゴールそのものではない。完成させなくてもいい、むしろ完成させすぎてはいけない。あくまでゴールは公演であり、舞台で表現されるものだから、書き上がった後の工程が山ほど残っているのが前提だった。

対して小説は、文章で全てをパッケージしていかなくてはならなくて、最初から性質や特性が異なる戯曲用のそれを無理やり作り変えるような作業になっていた。だから僕は今まで小説だけは、まともに書けなかったのだと、今回妙に1人で納得してしまった。

こうやって書き出すと、すごく簡単なことだけど、僕は長い時間、そう10年位かけてやっと理解ができた。どうして、戯曲はとりあえず1本書くことは書けるのに、小説となると思うように書いていけないのか、という疑問にやっと答えらしきものを得た。

 そういう間違いを犯してしまったのも、先に書いた、書きたいものを書こうとする気持ちが強すぎて、なぜ書けないのかを考えることをおろそかにしてしまったからだ。そこまで目がいかなかった。

 一方、僕はブログの文体を使って小説を書くことも拒絶していた。コラムやエッセイ的な文体は、どちらかというと長時間かけて書きたいものを書くというより、短時間でコンパクトに1テーマに絞って書いていくためのものだ。それはある意味でロマンと現実、みたいな関係で、同じ書くという行為・対象でも、小説や戯曲など物語を描くことはロマン溢れる上位のもの、コラムやエッセイは日銭を稼ぐ下位のもの、という安直な差別意識に、自分でも驚くくらい深い部分でとらわれていた。

大きな間違いだった。僕は自分を知らなかった。

今回実際に書いてみてわかったけど、僕はひとまずは毎記事ごと着地できている実績を何より信じて、このブログで使っている文体を何より拠り所とするべきだったのだ。いまこれを書いている文体こそが、僕自身が持ち得た経験と技術が集約されていることは間違いない。日常生活の中でちょっとLINEを送る、ではなく、何かを大きなものをビルドして、一冊の本として結実させたいという目標であるならば、今日、この時小さいけれど確実にビルドできている文体を信じて、これを突き詰めるべきだったのだ。小さいビルドと大きなビルドを別の工場で行おうとしていたけど、そうではなく小さいビルドを積み上げて、集まったパーツを組み立てるように、1つ大きなビルドとしてパッケージしていくイメージの方が正解に近い気がする。だから何に置いても、まず着地できる文体が必要だし、大事にしていくべきだったのだ。

 なりたい自分を思い描いて道を進むことは大切だけど、なってもいない自分を当てにして先に行こうとしても、わざわざ泥沼に足を突っ込むようなものだ。そのルートは最短距離なのかもしれない。しかし、遠回りしても舗装された道を進んだ方が到着時間は早いということもある。なぜ、その最短距離は自然のまま放置されていて、回り道するコースがわざわざ舗装されて国道に指定されたのか。その理由まではわからなくても、目の前の現実と結果を受け入れる謙虚さは時に正しい選択を導くだろう。

その意味で、答えは最初からこの「オムニヴォア」にあった。結果として、それを別角度から検証することになったのだ。

考えてみれば、僕がもう1度「本を出せるまで頑張ろう」と決意したことだって、同じような構図になっている。

僕は「本を出す夢」以外にも、やりたいことがたくさんあった。やってみたいことには直情的に行動に移した。地方から東京の芸術系の大学に進学してから、おおよそ20年弱、まあまあ好き勝手やってきた。妻も子供もいて、40歳も近づいて、いよいよネジを絞り込むべき時が来て、僕はモノを書くことに全てを集約させることにした。書くことは、小学生の時から夢にしていたことで、僕の全ての原点だ。

書くことだけは、情熱が途切れないし、現実問題として諦めなければいけない要素が何一つないし(お金もかからないし、肉体的な制約だって最もゆるい)、ここまで途中で断念した夢や目標の全てが無駄にならない。どんな結果に終わったことも、生きてきた時間全てが、書くためのネタとして再編成できる。

そして何より、やればやっただけ形に残るし、前にも進む。1つ1つは小さいビルドだけど、それは確実に僕のレベルを1つ1つ押し上げる。

 なりたい自分を追いかける時、頼りにするべきは「なってない自分」ではなく、なし得た成果だ。その成果物は必ずしも自分好みではなかったとして、いまやれたことが、やれること。書けたものが、書けるものだということだ。それを受け入れることが、即ち自分を受け入れるということなんだろう。文体ってつまりそういうことだ。自分好みでなかったとしても、それがたった今の自分であり、次の自分へのスタート地点はそこ以外にはない。

 

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