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オムニヴォア

書くために読んだもの。読むために書いたもの。2016.10.2より。読書の記録を中心に、日々の潜考の記録。いつか自分の本を1冊でも出すのが夢です。オムニヴォア(Omnivore = 1.雑食(性)動物 2.知識欲旺盛な人)

出された椅子に腰掛けようとすると、さっと後ろに引かれて尻もちをつかされる それが心地良いかどうか / 「死神の浮力」 伊坂幸太郎

 

死神の浮力 (文春文庫)

死神の浮力 (文春文庫)

 

 ぐいぐい引き込まれますね。ページを進める手は、後半にいけばいくほど早まります。しかし、登場人物に感情移入しようとすると、それを死神のドライっぷりに引き剥がされて、なんだか自分をどこにも置いておけない不思議な感覚で着地することになりました。面白いと言えば面白いし、この小説でなければ感じられない何かは確かにあるのですが、次はもう少し素直に感動できる小説なり何なりを読みたくなったのも事実です。凝ったフランス料理を食べた後に、お茶漬け食べたくなるような読後感でした。

 死神の浮力 (文春文庫) まっささんの感想 - 読書メーター

もうちょっと深掘る:未知のパターンに出会えて楽しいと感じるか、落ち着かなくて疲れると感じるか。どこで分岐しているのだろう。

 とにかく揺らしてくる小説だ。亡くした娘のために復讐する、というありがちな設定を、千葉という特異なキャラクターで揺さぶってくる。終始一貫してそのスタイルが続く。失った娘に涙する夫婦に感情移入をしようと思った矢先、天然的発言で涙腺を散らす。上げてから落とす、というわけでもないが、ともあれ出された椅子に腰掛けようとすると、さっと後ろに引かれて尻もちをつかされる。それが心地良いか、そういうものを求めているかで、ずいぶん印象が変わってしまいそう。

  この記事の前の記事で、新しい物語体験をしたくて、予定調和的な大型タイトルのゲームを購入してプレイする意欲が失われていると書いたばかりだけど、だからといって、たしかに他にはない読後感である「死神の浮力」に魅力を感じるかというと、これもなんだか違う。改めて自分の中で起きている反応を観察することになった。

 そこで思い出すのが、この間、なんとなく付けていたテレビでやっていた「暴れん坊将軍」の再放送である。あの松平健様主演の時代劇だ。たまたまテレビを付けたら冒頭のシーンから始まっていて、なんだかぼんやりと、最後の北島三郎が歌が流れるまでずっと見入ってしまっていた。序盤からやけに綺麗な着物を着込んだ只者ではない浪人が、そうです実は将軍様でした、という様式美。この際、控えおろう!な印籠でも桜吹雪でもなんでもいいが、先がわかっているのになんだか最後まで見てしまう安心感。なるほど、高度成長期を生きた昭和の親父達が、高視聴率を持ってこれらの時代劇を支えた気持ちが、38にもなると少しはわかるというものだ。

うん、僕は疲れているのかもしれない。

日常に。人生に。若い頃は、頑張らなければ奇妙なことには出会えなかった。いわゆる中年と呼ばれる年代に片足を突っ込んで、それなりに社会との繋がりも深くなって、頑張らなくても刺激的な生活が日常となった。大人になると人生退屈になると誰が言ったんだろう。大人になればなるほど、睡眠不足が何日か続くだけで、うまく処理できなくなるような事案が向こうからやってくるではないか。

 癒やし、という言葉の流行もいつの間にか終わっていたけど、目新しさがそこにあるからといって、ただただ揺さぶられていたい、というわけでもないようだ。動よりは静を、曲線カーブよりは直線ストレート。勧善懲悪な元気な物語でなくても構わない。メランコリックなしっとりした物語であっても良い。なんでも良いから、落ち着かせてくれないか。
 
 「死神の浮力」は、あるいは伊坂幸太郎という作家の傾向なのかもしれないが、七転八倒、それはストーリーラインというわけではなく、読み手の内側での作業という意味で、ともかくなんだか忙しい小説だった。物語のお約束、フォーマット的なものを多く備蓄している読者ほど、小さく小さくジャブを打たれるように感情をずらされて、安定軌道を取り戻すための微修正に忙しいだろう。休みの日にのんびりとスタミナに余裕がある時に読んだ方がいい。そういう意味では、学生時代に読むほうが素直に楽しめる本なのかもしれない。