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オムニヴォア

書くために読んだもの。読むために書いたもの。2016.10.2より。読書の記録を中心に、日々の潜考の記録。いつか自分の本を1冊でも出すのが夢です。オムニヴォア(Omnivore = 1.雑食(性)動物 2.知識欲旺盛な人)

世界の営みの中にあっての孤独が好き / 「火星年代記」 レイ・ブラッドベリ

 

火星年代記 (ハヤカワ文庫 NV 114)

火星年代記 (ハヤカワ文庫 NV 114)

 

 今熱心にプレイしている某ゲームの世界観の元ネタ的なお話でした。途中華氏451度みたいなエピソードやな、と思っていたら、ずばり同じ作者さんだったり(苦笑)。あまり古い本は読まない方なのですが、たまにはいいもんです。お話自体はこんな自分でもとても面白かったです。古い作品だからと勝手に王道的なものを想像していたら、とてもツイストが利いていました。色々なシーンが印象に残りましたが、最後の「ほらこれが火星人」だよ、がなんとも言えず感動です。読んで良かった。

火星年代記 まっささんの感想 - 読書メーター 

ブログではもうちょっと書きます:世界の営みの中にあっての孤独が好き、という感覚から、好きな人にあえて会わない、まで

今熱心にプレイしているゲームとは、それはもう「Fallout4」のことなのだけど、まあさておき。

最近は嫁の本棚から勝手に本を抜き取って読むことが多いです。愚痴は書きたくないので、んー微妙!と思った本は、ここには書かないけど、人の本棚から勝手に本を抜き取って読むという行為はなんだか楽しいし、お得です。(タダなので)

読んでいる時は「ああ、ウチの嫁はこんな嗜好なのか」と考えることは全くなく、普通に作品にのめり込むわけです。これがまだ付き合い始めの気になる人の本棚だったら、その人のことで頭いっぱいになるかもしれませんが、「うん、大体知ってる」という相手ですからね。

昨年の10月からこのブログを始めて、「書く行為そのもの」と向き合おうと決めた時から、いつかそういう時期に差し掛かるということはわかっていましたが、結局のところ義務と衝動の狭間問題が生じます。

書きたくて始めたブログが、書かなければいけないブログになっていく感じですね。義務化するのは「ブログ」だけではなくて、ある意味で書く行為そのものだったりするわけですが。大丈夫です。僕も40代が近くなって、伊達に経験を積んでいません。この流れはすでに読み切っています。

そういう時は書かなければいいわけです。ただし完全に「書く」を人生からなかったことにするのではなく、程々に繋ぎ止めておくのがコツみたいなものでしょうか。帰って来られる場所を残しておく。それが僕の場合、このブログです。そうなんですね、飽きたからといって全部お終いにできるほどは若くはないのです。もう後戻りもできない年齢なので、過ぎ去った時間の未練も受け入れて、ここからは何にしても積み上げていくしかないのです。仕事と一緒ですね。もうこの歳で、経歴の何もかもがなかったことにするわけにはいかないのです。

火星年代記」は「Fallout4」とのシナジーもあって、続きが気になってページをめくる手が止まらなくなる小説でした。「書く」にしても「読む」にしてもこうでなくていけないと再確認。僕はSFマニアでもなければ古典好きでもないので、レイ・ブラッドベリという作家のことはよくわかりません。「華氏451度」は知っていましたが、同じ作者だとは知りませんでした。

「Fallout4」は今から約200年後の、核戦争で滅びた世界が舞台ですが、その未来像はちょっと古い時代のSFに描かれた未来、いわゆるレトロフューチャーな未来だったりします。SFの系譜がよくわからないので、それっぽいな、くらいにしか僕にはわからないのですが、いわゆる「火星年代記」も元ネタ要素の1つなのだろうと思いました。

少なくとも滅びゆく世界、文明崩壊、というテーマは共有している作品であることは間違いないです。

つい先程、3:00くらいに目が覚めてしまい、しかもそれを愛犬に察知されてしまったので、仕方ないのでとても早い朝の散歩に出かけてきました。僕の住んでいる街は大きな大学があって、比較的若い世代が多い住宅地なので、この時間はしんと静まっています。以前住んでいた高齢者の方が多いところだと、この時間でも元気に散歩や体操をしている先輩方がそこかしこにいらっしゃいますが、今の住処にはそういう人と出会うことはまずないです。そうやって眠っている街を1人と1匹で歩いていると、とてもわくわくしてきます。

火星年代記」でも、眠っているを通り越して死んでしまった街の描写がいくつも出てきますが、このわくわくした感じは全く一緒です。そういう雰囲気がとても好きだ、という感覚はネット上ではよく見かけますが、リアルに話しかけられる距離にはほぼいない。みんな本当は好きなのに隠しているだけじゃないの?と疑っている自分もいるわけですが、そこはまあ、「そういうの不気味」とか「お化け出そうで怖くないですか?」という言葉を真に受けることにして、ここでも何がそんなに楽しいのか、ということをあえて書いてみることにします。

決して、文明が滅んでしまえ、とか、人間が嫌いだ、というわけではないのです。むしろ、世界の営みの中にあっての孤独が好きなだけなのです。「火星年代記」も、年代記と付いているくらいですから、その街は仮死状態であるだけで、大きな歴史の流れ自体が止まってしまったわけではない。人一人の人生という尺で考えれば、その人が生きている間に復興することはないかもしれませんが、いつかまた人間(あるいはそれに取って代わった生命)がそこにやってくる、という前提はあります。

自分ひとりの人生が終わる、終わらない、とは別の、もっと大きい世界の命、みたいなものは信じています。むしろそっちが勝手にやってくれるのだから、自分も勝手にやってますね、という開放感です。

小さい頃、そう小学生くらいでしょうか。何人かの子供たちでどこかの公園に遊びに行って、鬼ごっことかそういう遊びが始まって、最初は調子を合わせて一緒に遊ぶけど、なんとなく疲れてしまって、とか、飽きてしまって、とその集団からちょっと距離を置くような子っていたと思います。僕は自らそうやって距離を置くということまではしない子でしたが、そういう子が一人離れようとする瞬間はあざとく見つけて、なんとなくその子の近くに行って話しかけたりするのが好きでした。あくまで集団に属しながらも、そこのちょっと端っこにいる子が好きだった。何かみんなとは違う面白い話が聞けそうで、つい僕もそういう子の隣に座るのです。

生きている街の、眠っている時間や場所というものが好きなのです。夜中にふらっと1人で散歩する、とはそういう感覚なのです。

結局は、世界の大きな営みを拒絶しているわけではありません。ついこの間、好きな相手に会いたい、という状態が気持ち良くて、あえて恋人と会う時間を制限している、と話している同年代の女性と話す機会がありました。

なんでしょうね。アラフォーって、開き直りの年代だからでしょうかね。アラサーまで表向きは行儀良くしていた部分が、守るべきものがある意味でなくなって、ちょっと変態な自分とうまくやっていく知恵が身に付いてしまっている感がありますね。僕がこの女性と付き合っていて、こんなこと言われたら勘弁してくれよと思うと同時に、こんなに好きでいてくれているのかと嬉しいと思うのですよね。10年前の自分だったらケンカして終わりだった気もします。

最終的に何の話を書きたかったのか、よくわからなくなってきました。最後に収拾つけるためのまとめの一段落でも書いた方がいいのかもしれませんが、そろそろ疲れてきたのでここまでにします。