オムニヴォア

書くために読んだもの。読むために書いたもの。2016.10.2より。読書の記録を中心に、日々の潜考の記録。いつか自分の本を1冊でも出すのが夢です。オムニヴォア(Omnivore = 1.雑食(性)動物 2.知識欲旺盛な人)

映画「リリーのすべて」を観て、別れゆく夫婦について馳せる

 

 1本映画を観た。「リリーのすべて」という映画だ。

とある若い夫婦。2人とも画家だ。ある日、妻は夫にモデルを頼む。それだけならば、どこにでもある話なのかしれない。しかし、ただのモデルではなかった。妻が夫に頼んだのは”女性”のモデルだった。

 頼んでいた他の女性が急用で来られなくなってしまったから、夫を女装させてモデルに仕立てた。それがきっかけとなって、夫は自分の中にもう1人の自分、リリーという女性が存在することに気付く。夫は男を捨てて、女の自分こそが本当の自分だと確信していく。そして、愛した夫がリリーという女性に変貌していく時、妻は…。

そういう映画だった。

いわゆるトランスジェンダーを扱った映画だが、今ひょんなことからそういう人を取材して記事を書いている。その一環で観た映画だ。


話は変わって、今年に入ってから、僕はこのブログに「1つ大きな厄介事を抱えている」というようなことを時折書いていた。どうやら、それも早ければ7月の終わりから8月くらいにかけて、1つ節目を迎えそうだ。

その日、僕は10年と少し続いたこの結婚生活を終えることになる。あと2ヶ月ちょっとで、妻と、そして子供達を置いて、これを書いている部屋から出ていく。

なぜそうなるに至ったのか。その理由をここで書くつもりはない。おそらくそれは、あまり重要なことではない。それよりもきっと書き残すべきことがある。


リリーのすべて」の主人公は、本当の自分を求めて生きる。文章にするとなんと平凡なことだろう。自分の心に正直に生きる。なんてことはない。皆が当たり前のようにそうしている、あるいはそうしたいと願っていることかもしれない。けれど、ある日決心して自分の心に正直に生きると決めることは、避けがたい別離を生む。それまで偽りの自分で築き上げた世界が多かれ少なかれあるだろう。人によっては、自身を取り巻く世界のほとんど全てが崩れていってしまうかもしれない。リリーとなった夫とその妻は、ささやかだけど幸せな結婚生活が失われた。僕もまあ、似たようなもんだ。

そうまでして、本当の自分を大事に守る必要があるのだろうか。1度はきっと考える。大切な人や世界を代償にしてまで得るべき価値のあることなんだろうか。許されることなのだろうか。自分さえ我慢すれば丸く収まる。1度はきっとそんなことを考えるはずだ。


愛が欲しい。愛への欲求だけは、捨てされるものではない。人が人を愛することだけは、否定できない。

だけど、愛に向かうためのはじめの1歩は、自分自身を愛せるかどうかにある。自分自身を受容できていない限り、誰かを愛していくなんてできない。誰かを愛していけない人が、誰かから愛を受け取ることなんてできやしないだろう。

だから、本当の自分を求めていかなければならない。自分の心を殺したままでは、愛は手に入らない。


リリーのすべて」が眩しかったのは、夫も妻も、最終的にはお互いを受け入れて、深く愛し合う心までは失わなかったことだ。僕と妻には、残念ながらこういうエンディングが待っているようには思えない。どうしてそんな悲嘆に暮れているのか。僕達は「リリーのすべて」の2人のように、正直に気持ちを打ち明け合うことが、おそらく最後までできないからだ。夫は「女になることを止められない」と告白し、妻は「私が愛した人を返して」と涙を流す。僕はそんな2人をとても羨ましく思った。映画そのものも、そんな2人を祝福しているかのようなラストシーンだった。「リリーのすべて」の2人は、1度は自分の気持ちをパートナーにぶつけあったからこそ、夫が女になるという現実を、幸せな形で受け入れられたのではないだろうか。僕はそれがとても羨ましい。


残念ながら、僕自身を取り巻く環境は、映画のように美しくはいかない。今日も空はとても高くて青い。静かに時間が流れていく。あと2ヶ月ちょっとでいなくなるこの部屋で、本当に伝えるべき人が壁一枚隔てた所に居るけれど、僕はいつものように、ネットの海にボトルメールとして抱えた想いを放流する。

そんな日々だけど、僕は僕なりに、以前には理解できなかった愛の形を1つ学んだ。「リリーのすべて」の2人の美しさ。それを感じ取れるくらいには成長できているようだ。